このとてつもない行事が、誰が何時はじめたものであろうか、という疑問があるが、残念ながら、それぞれ俗説はありながら、不思議と確実なことはわからない。
如意ケ嶽の大文字については、これが送り火の代表的なものであることから俗説も多く ① 時期は 平安初期、創始者は空海、 ② 室町中期、足利義政、③ 江戸初期、近衛信尹などがあり、

①は「都名所図絵」などに記されるところで、往古山麓にあった浄土寺が火災にあった際、本尊阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明をかたどって点火したものを、弘法大師(空海)が大の字に改めたというのであるが、その後近世に至るまで如何なる記録にも大文字のことが記されていないから全くの俗説にすぎない。空海に仮託された起源説は其の他数説あるが、(「大文字噺」「山城四季物語」等)いずれもとるに足らない。
②足利義政を創始者とする「山城名跡志」説は、義政の発意により相国寺の横川景三が指導して義政の家臣芳賀掃部が設計したとしている。(義政が義尚の冥福を祈るために横川が始めたというのも同様のこと)
③近衛信尹の説は寛文2年(1662)に刊行された「案内者」によると次の如く記されている。

山々の送り火、但し雨降ればのぶるなり…
松ケ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ。

 著者の中川喜雲は寛永13年(1636)生れであり、慶長19年(1614)に歿している信尹と年代的にあまりはなれていないこと、また信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆といわれた能筆家であることそれ故信尹に仮託されたと考えられないこともないなどから、この説の妥当性が考えられる。いずれにせよ、大文字送り火はおそらく近世初頭にはじめられたものと思われる。近年大文字送り火に関する古文書、ならびに大文字山が銀閣寺領であったという資料が銀閣寺から発見され、これらの記録から送り火は室町中期足利義政を創始者とする説がもっとも正しいように思われると地元ではいっている。
 松ケ崎の妙法は麓の涌泉寺の寺伝によると、当寺が鎌倉末の徳治元年(1306)日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際、日像が西山に妙の字をかいて点火したものだといい、法は妙泉寺の末寺下鴨大妙寺二祖日良が東山にかいたのがはじまりといわれる。妙・法の2字が同時に作られたものでないことは、妙が法の左に画されていること(読みの順序が右読みでなければいけない)からでも推定されて、すくなくとも法は、時期として日良の時代(生歿年1590〜1660)近世初期。妙は大文字における空海説と同様、附会の説と考えられ、戦国末期か近世初頭というところである。
 船形は麓の西方寺開祖慈覚大師円仁が、承和年間、唐留学の帰路暴風雨にあい、南無阿弥陀仏と名号を唱えたので、無事帰朝できたことから、俗にこの船形は精霊船といわれており、その船形万灯籠をはじめたと伝えられる。船の形をとった動機としてこの円仁の故事が想起されたとしても、創始の時期を1100年以前に遡ることは困難である。
鳥居形の場合、弘法大師が石仏千体をきざんで、その開眼供養を営んだとき、点火されたと云うが、むしろ愛宕神社との関係を考えるべきであろう。
 左大文字も計画だけは江戸初期にあったらしいが、中期以降にはじめられたものであろうと伝えられる。京都五山送り火の起源については明らかでないが、地元の人々の信仰をもとにはじめられ受け継がれてきたからこそ、それが直ちに記録にもとどめられなかったのであろうと考えられる。
中世末戦国時代に盛んに行われていた大燈呂の風習を、当時の公卿山科言継の日記「言継卿記」によれば、永禄10年(1567)に、京都の町で2間4方の大燈呂がつくられ、前代未聞人目を驚かしたといい、元亀2年(1571)には、そのような大燈呂が73もつくられ、町々でその趣好が競われたという。大燈呂は精霊送り火の―種である万燈会の余興化したものであり、おそらくそこに示された人々の信仰と意欲が、大規模な精霊送り火である京都五山送り火をつくり出すエネルギー源となったものと考えられる。